うさぎだと思う…。

今朝、ネットでこんなニュースを読みました。
元オウム真理教の平田容疑者が昨年大晦日に出頭した理由について…。

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一方、出頭の動機について平田容疑者は、国松孝次元警察庁長官銃撃事件の時効成立(2010年3月)と、昨年の東日本大震災を挙げ、出頭が昨年の大みそかになった理由を「飼っていたウサギの最期をみとるためだった」としている。

 ウサギは昨年8月に死んだといい、斎藤容疑者が任意提出した写真の中には、平田容疑者がウサギと一緒に写った写真もあった。しかし、捜査幹部は「出頭時、年内の逮捕に異常なこだわりをみせていた。ウサギだけが理由とは思えない」と首をかしげる。

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うーん。うさぎが理由って、深く頷ける、私です。(笑)


と、うさぎはさておき。。。
オウムの事件が起きた時、私は他の多くの日本人と同様に、信仰というものに興味がありませんでした。
というよりも、むしろ、そういったものに否定的であったと思います。
その理由の一つに、信仰や正しさを理由に、多くの人たちが、弾圧され、殺され、搾取されてきたという、宗教の歴史の一面がありました。

私の大好きな、何回も読み返した本にウンベルト・エーコの「薔薇の名前」があります。
これは中世の北イタリアのカトリック修道院で起こる怪事件ををフランシスコ会修道士ウィリアムが解き明かしていくという物語なのですが、その本の中でウィリアムが犯人(盲目の老修道士)と対峙した後、弟子のアドソにこんなセリフを言うのです。

「哲学への憎悪に歪んだ、あの顔の中に、私は生まれて初めて反キリストの面影を見た。それは、彼の到来を預言したもの達がいうように、ユダの一族から来たものでもなければ、遠い国からやってきたものでもない。反キリストは他ならぬ畏敬の念から、神、もしくは真実への過多の愛から生まれてくるのだ。
あたかも、聖者から異端者が出たり、見者から魔性の人が出るように。
恐れた方がよいぞ、アドソよ、預言者や真実のために死のうとする者たちを。なぜなら彼らこそは、往々にして、多くの人々を自分たちの死の道連れにし、ときには自分たちよりも先に死なせ、場合によっては自分たちの身代わりにして、破滅へ至らしめるからだ。
ホルヘが悪魔の所業に及んだのは、淫らなまでにおのれの真理を溺愛して、虚偽を破壊するためには何をしてもかまわない、と考えたからだ。
ホルヘが「アリストテレースの第2部」を恐れたのは、その中で、たぶん、私たちがおのれの幻想の虜にならないようにするためには、真理と名の付く相貌を一つ一つ歪めてみせるように、真剣に説かれていたからであろう。おそらく人々を愛するものの務めは、真理を笑わせることによって、真理が笑うようにさせることであろう。
なぜなら、真理に対する不健全な情熱から私たちを自由にさせる方法を学ぶこと、それこそが唯一の真理であるから」

「ウンベルト・エーコ 薔薇の名前(東京創元社)」より

PICT0039.jpg

アグアグ。
私もうさぎが理由だと思うのよ。
うさぎはかわいいからね~っ。


ちゃ、ちゃま姫さま…それ食べちゃダメです。。。。

サクリファイス

初霜が降りました。

1

頬を刺すような、凍てついた強風(赤城おろし(;_;))も吹きはじめ、震え上がりながらも、いつもの冷たい冬の到来にホッとしています。
冬の空気は澄み、空を青く、遠景を美しく見せてくれる。

散歩の途中、町中の川に鴨の群れをみつけました。

2

一群れ?三十羽くらいでしょうか。
とても身近な川に、可愛い鴨の群れ。見つけた時はうれしかったのですが、カメラを向けている間に複雑な気持ちになってきました。
写真からも分かるように、この川は町中にある生活用水路。
水量は少なく、水はかなり汚染されています。

3


ふうっと、金子みすずさんの詩が思いうかびました。

【大漁】

朝焼け小焼けだ大漁だ
大羽いわしの大漁だ
浜は祭りのようだけど
海の中では何万の
いわしの弔いするだろう


4

ここ、何十年かの間に、日本人の生活は非常に豊かに便利になりました。近代化は、それ以前にあった、貧しさ、飢えや病気といった、生存に関る苦を、悲惨を、無くしていったように思えます。

でも、それらは、この世界から無くなった訳でなく、痛みを請け負うものを、苦の持ち回りを、違えただけ。

5

なるほど。それって、やっぱり冬は鴨鍋がうまいっ。てことよね?

‥‥‥‥いえ、ちょっとだけ、違うとかなと思います(-_ー;)。




月とうさぎ

昨夜は満月でした。
少しおぽろではあったけど、私のところからは、とても美しいお月さまがみえました。

そういえば、月の住人はうさぎ、なぜでしょう?

その訳のひとつに、釈迦の前世の物語(本生譚)があります。
これは釈迦がブッタとして生まれる前の功徳を語った物語。


あるとき、森に住む狐と猿とうさぎのところに、一人のみすぼらしい老人がやってきました。

「私は、もう年をとり、力がない、どうかおまえたち養っておくれ。」

猿は木に登り、果実や木の実をとり老人に与えました。
狐は川にいき魚をとって老人に与えました。
ところがうさぎには、食べものを捕ってくる能力がありません。
手ぶらで帰ってきたうさぎは。
「どうぞ、私を食べてください。」と言って、そこで焚かれていた火の中に飛び込んでしまいます。

それを見た老人は、たちまちに本来の姿である、帝釈天となり。
その捨身をたたえ、うさぎを火の中からよみがえらせ月にあげたというのです。


FI1637147_0E.jpg

奇麗な月をみると、手を合せてみたくなるのは、そこに物語があるからかもしれません。


    「もろともに あわれとおぼせみ仏よ きみよりほかに しる人もなし」
                            
                                         明恵上人



癒されること。

ある小学校で、子供たち同士でマッサージ(肩もみ)をするという時間を設けたそうだ。

「マッサージをされて気持ちがよくなった人は?」
という質問に、大半の子供が手を上げたのは当然。
面白いことに。
「マッサージをしていて気持ちのよくなった人は?」
の質問にも多くの子供たちが手を上げたそうだ。

心地よさを与える手から、相手のやすらぎが伝わり、それが素直に心に入ったのかもしれない。


てんてんが逝ってしまっても、私が恐れていた孤独感は来なかった。
変に思われるだろうが、私はてんてんの完全な不在を感じていない。

それでも、どうしようもなく辛いのは、てんてんに触れられないこと。
ふわふわの、鼓動する、暖かな、重みを、抱きしめる。
柔らかな頬に鼻をすりよせてキスをする。
赤いきれいな目が細められるまで、小さな頭を撫で続ける。
夢にみるくらい、私はこれらに飢えてる。
たぶん、この辛さは他のうさぎと暮らせば、簡単に解消するものだと思う。
それは状況的に、何の問題もない、簡単な事なのに、私にはできない。
それで満足を得てしまったら。
感覚の餓えを満たしてしまったら。
私は、その時、もっと大切なものを失う気がして。


与えることで、満たされるもの。
やさしく触れ合うことで、つたわるあたたかさ。
哀しみで、癒されていくもの。
それに、癒されない傷が、あたえてくれるものを抱えていけたらいい思う。

花咲く美人

よく利用するスーパーマーケットのレジにすごい美人がいる。

たぶんトシは五十台後半から、六十。
背は小さく、テキパキ機敏に動くけど、体型はずんぐり太め。
目と目の間が離れて見える扁平な骨格の、横卵型の輪郭には、小さめの目、低めの鼻、大きめの口がパラリと散らされている。
そう、一言でいうと、お多福さんにそっくり。
でも、色白の顔に、きれいな色の口紅つけてニッコニコとしている彼女は、生き生きとして、とってもきれいで可愛い。

少女マンガをみると、主人公の感情を表現したり、華やかさを出す為に、背景に花が散ってたり、放射線が引かれていたり、禍々しい網縄がうずまいているけど。
あれは、リアルに人を捉えたものだと思う。
実際、本当に人は、その人の気で、感情のオーラで、花を出したり、怨魂を漂わせたりしてる。

スーパーのレジで、ちょっと甲高い声での「いらっしゃいませ♪」の挨拶を受けると嬉しくなる。。
彼女が微笑むと、その周囲にピンクの花がパァッと飛ぶのが見える。
彼女と接した後は、なんだかホンワカ心が浮かれる。
いいな。いいな。本当に美人だよな。

………もしかして、これって恋?

忌明け

今日はてんてんの四十九日。

亡くなったものは、四十九日後に他の世界に往って生まれ変わるという言い伝えがあり。
そして、この間に遺族が供養を重ねる(善業)ことによって、彼らを、よりよい生まれ変りにおくことができるのだという。
私は無宗教であるけれども、この供養のシステムを部分的に利用をさせていただいている。

てんてんの状態が死に向かう不可逆なものと覚った時。
その最後をきちんと看取るために、しっかりしなければ。という気持ちが私を張り詰めさせていた。
亡くなってからは、埋葬の為に泣き崩れてしまう事はできない。と。

倒れないように、息を続けるために、必要な意味。

ある画家はこういう言葉を残して死んだ。
「葬式無用、弔問供物固辞すること。生者は死者のために煩わされるべからず」
私はこうした感覚が好きだし、私が死んだ時は、この形で逝かせてもらいたいと願っていた。
でも、今では、供養や葬儀は、時には死者の為ではないもの、それを奪うことはどうかと、思い迷う。

死者を悼み、祈る気持ち、それは残された者の悲しみの浄化儀式だ。
供養という義務は、生きていかねばならぬ者の、日々を支える意味の杖になる。

生者は死者に煩わされたい。

やさしいにんじん

私の趣味と、てんてんのご飯用に、庭の一部で野菜を育てている。

てんてんが逝ってしまったのに、てんてん用に植えたにんじんは、この寒さにも負けず、美しい緑の葉を保ち、しっかりと実を太らせたままだ。

という訳で、てんてんの代わりに私が、このにんじんを食べているのだけど、信じられないくらいおいしい。
そういえば、てんてんは庭で育ったパセリであれば、どんなに具合が悪くても食べたクセに、市販のパセリの束なんて見向きもしなかった。
しみじみ納得。
にんじんは、ハーブのように香り、皮がピシリと張り詰め、実はホクホク甘い。

「土の恵み。自然の恵み」という言葉だけは、よく頭には入ってくるけど。
種から育て、見守り、にんじんを土から引き抜き料理し、食べると、その言葉を生身に知ることができる。
種は撒いたけど、このにんじんを育ててくれたのは、土と太陽と雨。
食べるのは、にんじんの命。
私はそれらに何の対価も払わず食べる。

現代社会の生活で、私は与えられている。恵まれている。と身に染みることは滅多にないと思う。
対価交換、取引が関係の主体だ。
お金を払うことで食べ物は手に入る。
人に気にいられるような自分であることで、愛をもらう。
何もかも。時には親の愛でさえも、この取引の対象だ。
その正体に無償を感じさせてくれるものはないに等しい。

にんじんを食べるとき。
「いただきます」という言葉が気持ちとぴったり寄り添って出た。

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3時のおやつよりうさぎが好き
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