河合隼雄さん

先月のことになりますが、河合隼雄さんが亡くなられました。
2002年から3期に渡り、文化庁長官も勤めていらしたので、ご存知の方も多いと思います。
彼は日本人で初めてユング派分析家の資格を取得、そして臨床心理療法家として、多くの方の治療に携わり、またその見地から、独自の心理学の世界を構築していかれました。

私が初めて、河合さんの本に触れたのは、もう十五年以上前になるでしょうか…。
どんなきっかけで彼の本を手にとり、そしてどの本に最初に手にとったかは忘れてしまったのですが、それからずっと河合さんの本を読み続けてきました。
それは社交や処世術が苦手で、心に非常に弱い部分を持った(と自分では思っている(笑))私にとって、生きていくための素敵な糧であり、いつも側に置ける、やさしい助けでした。

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文章は、本は、人を奥深くまで、映し出します。
ちょっと有りえないくらいの、微妙な偶然の重なり(シンクロニシティ?)で、私が会うことのできた、河合隼雄さんは、私が彼の本から感じていた通りの人でした。

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写真は1997年ですから、河合さんは六十九歳。
でも、その第一印象は「軽やかな少年」それに「禅僧のような方」だったのです。


「禅僧の雰囲気」
この部分は、河合さんの心理療法家としての姿勢が、そのまま、彼に現れていた気がします。

河合さんは、著書「ユング心理学と仏教」の中で、彼が治療者として、クライエントと向き合う時のことを、禅宗二つを用いて、こう書いています。

私は心理療法でクライエントと向き合っている時、曹洞宗の僧が強調する「只管打座」という言葉を想起することがあります。
「治療」とか「解決」とか言うことにとらわれずただ座っている。そのように感じる時があります。
これはそうなっている時がある、というのであって、それを目標にしているのではありません。

臨済宗の「公案」という点でいえば、私はクライエントの訴えを禅の公案に似ているなと感じることがよくあります。
禅の「考案」の有名なのに「両手を打ち合わせると音がするが、片手のはどんな音か」というのがあります。
素人判断で考えても、これは合理的思考によって答えが出ないことはあきらかです。
つまりこれは表層の意識による思考に頼らず、より深層の意識へと全人的にかかわってゆくための一つの契機として「公案」が与えられていると考えられます。


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河合さんは亡くなられましたが、彼の存在が残したもの、そして私が彼から頂いた言葉は、生命力をもって私の中にあります。

河合隼雄さんに、それに彼との縁を結んでくれた全てに、この場をお借りして「ありがとう」を。

そして最後を、河合隼雄さんの本(ユング心理学と仏教)から、彼が引用なされた詩で治めたいと思います。


1000の風

私の墓石の前に立って
涙を流さないでください。
私はそこにいません。
眠ってなんかいません。

私は千の風になって
吹き抜けています。

私はダイアモンドのように
雪の上で輝いています。
私は陽の光になって
熟した穀物にふりそそいでいます。
秋には
やさしい雨になります。

朝の静けさの中で
あなたが目覚める時
私は素早い流れとなって駆け上がり
鳥達を空でくるくる舞わせています

夜は星になり、
私はそっと光っています。

どうか、その墓石の前で
泣かないでください。
私はそこにいません、
私は死んでいないのです。

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★大好きな人のことを書いて、ブログにあるまじき長さになってしまいました(^_^;;。
読んでくださった方、ありがとうございます。



ハンニバル(本・感想)


ハンニバル

話を読み進むにつれ、奇妙な違和感を感じ始めた。
これがトマス・ハリスの作品なんだろうか?
磨き抜かれた職人技のように、削ぎ落とされた的確さを持つ表現力と、バロック音楽のように幾何学的で滑らかなリズムを持った構成。
作品のあちこちに散らばる、人間の卑俗さや虚栄に対する嫌悪、は確かにハリスの観点と筆致なのだが。

「レッド・ドラゴン」「羊達の沈黙」と、トマス・ハリスは犯人像をプロファイリングし、そこから事件を解決していく有能なFBI捜査官を書いてきた。
「ハンニバル」はその続編となる。

プロファイリングは、情報の断片という、さまざまな光源を頼りに、人の内面の深い闇を探りながら、その中でじっと目を凝らし、一人の人間の輪郭をスケッチしていく作業だ。
人間の内面の闇を探る捜査官の描写は、読むものに未知で危険な異所に踏み込んでいく時の緊張感やスリルを味あわせ。
探る者と、探られる者が、闇の中で一瞬触れ合った時、シンパシーにも届きそうになる人間心理のあやうさは複雑な戸惑いになる。

やがて闇の中からくっきりと浮かび出してくる、リアルな表情を持つ人間像は、まるでレンブラントの肖像画のように見事だ。
そしてその人間像から読めるのが、ひとつの刹那を含む犯罪の行方となる。

こういった、人間をただの一面で見ずに描こうとする、知に含まれる聡明さ、やさしさ。
また、相対化しようのない、複雑な人間の感触を感じさせるものが、前作までのハリスの小説にはあった。
しかしこの作品にはそれがない。
私の感じた違和感の原因は、この作品の登場人物が、皆一様のしらじらとした一面の光だけで照らされているように見えるからだろう。

そして、何より私を落胆させたのは、この小説の帰結だ。
全ての醜いものは退治され、心理的障壁をも乗り越え、クラリスはレクター教授と結ばれる。
しかし、この結び付きは男性側の自我の拡大化と、過去の思い出の修復でしかなく。
彼と対立してきたクラリスの自我は、相手の自我の根幹に何の影も変化も落とさない。
なぜなら、悲痛な使命感と正義感で自己を全うしようとする、羊達の沈黙の声に共振するクラリスの凛とした自我が殺され。
ただ美しく、賢く、やさしい、自分の恋人だけを甘く包みこむ、単なる相手の為の女となってしまったのだから。

このラストは、この小説の中に出てくる、どんな残虐な描写よりも私に吐き気を催させた。
 

 

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ブエノスアイレス(映画・感想)

 「ウォンの手が早く直らないように願った。幸せだったから」
身勝手でわがまま、高熱を出した人間に食事を作らせるような男、ウォン(レスリー・チャン)の世話をすることが、失いたくない幸せ。
そんな恋をしている主人公の男性ファイ(トニー・レオン)が彼、ウォンを失う。

ファイが感じることができるのは、まだ消えない彼への想いと、彼との思い出だけ。
それは2度と手には入らず、思いだす度に心を痛め付ける。
何故、失ってしまったんだろう、何故ここにいるはずの彼がいない?
世界を奪われ、どこにも自分の居場所を見つけられない孤独。

この映画の無言で海を眺めるファイのシーンは、こんな失恋の喪失感を観る者の心に見事に伝える。
ピアソラの曲が流れる数ショット。私はファイの痛みに共振し涙が出そうにもなる。

この映画の撮影中、失恋して泥酔したスタッフが、監督のオフィスを訪ねて来たという。
その時、監督は「I have been you」の曲を4時間に渡り何度も掛け直し流し続けたが、そのうちの2時間、そのスタッフはトイレに閉じこもっていたそうだ。
その2時間、彼がすすり泣いていたのか、寝ていたのか、監督は未だに知らないとか。
そんな痛みに触れない距離を知っている人のやさしさが、この映画は流れている。

この映画は男と男の恋愛映画ではなく、普遍的な愛と喪失の物語。
男と女、男と男、女と女、誰かとあなたの、それに私の物語なのだろう。
愛する者を失った全ての人に宛てられたオマージュ。

また、映画の後半に出てくるチャン・チェン(彼の役は素晴らしい)が、その明るさで主人公ファイの居場所のない孤独に道筋をつけるポジティブなラストもとても素敵だ。


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ガタカ(映画・感想)

人は何かに成ることに憧れていて、何かに成ることを回りからも要求される。
自分の望むものになる自由、その希望に向かって努力できること、これは本当にすてきだ。
しかし実際は自分がこれに成りたいと思ってみたところで、環境や条件、才能、また社会的差別などに阻まれることの方が多い。
この映画ガタカでは、何かに成りたいと本人が願う自由、努力できる希望を、社会が(DNA差別)が機能的に剥奪していく。

舞台は近未来、住民は完全にDNA管理をされている社会。
そこでは優秀な遺伝子の組み合わせによる受胎が一般的となり、子供は生まれ落ちた瞬間に遺伝子を調べられ、劣性とされる遺伝子を持った子供は不適正者と登録されていく。

この映画の主人公ビンセントは劣性遺伝子を持った不適性者だ。

ビンセントの父親は、宇宙飛行士になりたいと努力をする彼に言う。
「そんなことをいくらやっても可能性はない、お前は不適正者なのだから」と。
DNAに欠陥がある不適正者だから。
生まれた時に計られ、登録されたDNAが優秀でないからだめだ。
いくら努力をしたところで、不適生者に務まる訳はない。
DNAに欠陥のある人間は、社会の下層階級者になるのだ。

これが彼に与えられた社会の環境であり、壊しようもないような壁だ。
彼が彼自身であることに、社会は否定的なのだ。

しかしこの壁の存在を当然のものと納得し、それに従うことは、変えようのない自分自身であることを(DNAが違えば別人だ)劣性だと見ることだ。
また、それは自らがその差別社会の構造再生産に加担していくことにもなる。

彼は社会に、その壁に反抗していく。
「僕に何ができるか決めつけるな、やってもいないうちにできないと言うな。」
DNAを根拠とした社会の彼への決めつけ。
その差別は間違っている、と。

彼は事故で障害者となった他人、(DNA優秀者)と取引し、彼に成りすますことで、エリート中のエリートである宇宙飛行士の職を得、働き始める。
そしてそのエリート達の中も抜きんでた実力を示し、出世をしていく。
厳しいDNA管理の中、DNAを偽るという髪の毛一本落とせない、異常に神経を使う作業をしながら。
彼が回りを欺くため、寒々しい海辺で身体を洗うシーンは痛々しく切ない。

最後のシーン、宇宙に出る直前にビンセントは言う。
「忘れないでくれ、ぼくは任務(社会ができないと決めつけたことを)を完ぺきにやりとげた」
そう、ビンセントは自分が自分であることを請け負いながら、社会の差別の裏付けをひっくり返した。
彼が彼自身であることを、彼は社会(DNA差別)になどに否定させはしなかったのだ。

そして、自分を受け入れない地球を嫌っていた彼が宇宙に出た瞬間、地球の自分の居場所を感じるラストは哀しくて、嬉しかった。

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フォー・ウェディング

運命の人、ロマンチックラブ、そしてハッピーエンディング。
その人生最高の高揚をもたらす、永遠の愛を誓う舞台が、結婚式であるのは、世界中同じだろう。

この映画「フォー・ウェディング」は、主人公が、四つの結婚式と一つのお葬式を巡り、愛する人との出逢いを求め、悩み、多くの失敗を重ねた後に、自分の愛の形とパートナーを見つけていく物語。

主人公のチャールズの演じるのは、ドジで優柔不断のハンサムを、演じさせたら、たぶん世界1(笑)のヒュー・グランド。
彼の子供のように揺らぎやすい純な感性と、不器用なまっすぐさが、映画全体をとても好感の持てる、コミカルで明るいものにしている。
真実の愛と、幸福な結婚を夢見る、この映画の彼に、多くの人が共感し、きっと笑えるはずだ。
喜びにきらめく、華やかな英国式ウェディングシーンも一見の価値がある。

だが、この映画で私が一番、心が揺らぎ、愛する想いの真実を感じたのは、四つの結婚式の間に挟まれた、葬儀のシーンだ。
招待を受けた結婚式のパーティ会場で、突然の死にみまわれたのは、主人公の友人の、ゲイのカップルの一方。
彼等は深く愛しあい、一緒に暮らしていたが、もちろん、結婚はしていない。

その葬儀で、逝った彼の為に、残された一方は、こうスピーチをする。

「今の私の彼への想いは…。それは、言葉にはあらわせません。他の人の言葉を引用させてください。オーディンの詩こそ、今の私の気持ちです。」


時計を止めよ。電話を切れ。
吠える犬を黙らせよ。
ピアノもドラムも止めろ。

棺を出せ。
嘆きの列を通せ。

飛行機を空に飛ばし、空にこう書かせよう。
彼は死んだ。

鳩の白い首に黒い喪章を巻け。
警官は黒い手袋をはめよ。

彼は私の道しるべ。仕事の毎日、休みの日曜。
私の真昼、真夜中。おしゃべり、そして歌。

愛は永遠と思ったが、それは違う。

星も意味はない、一掃せよ。
月も太陽も排除しよう。
海も森も遠ざけよ。

慰めになるものは何もない。



ムーランルージュ

私はテレビを見ないので、一日の終わりには、ワインを飲みながら、お気に入りのDVDを眺めて過ごすことが多い。
今、観ている映画は「ムーランルージュ」

私が、この映画で一番好きなのが、ヒロインの高級娼婦サティーンの独唱シーン。

サティーン役のニコール・キッドマンは作り物のような完璧な美しさ。
意志的な目に星をきらめかせながら、深みのある、シュガーボイスで歌う。


私は生きる、夜の世界に。

太陽の光に耐えられず…。

一体、いつになったら、本当の暮らしに戻れるのか。

いつの日がここから飛び出そう。

ここの暮らしを昨日のものにしよう。

あなたの愛を新しい生きがいとして、その愛にはいつか終わりがあるの?

夢から夢を追い続ける私の人生。

そして、いつも恐れている。その夢が終わることを…。



ブログの楽しみ…。

先日、友人から本を貰った。
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仕事関係の知人から、彼のところに、20冊程贈呈本として、送られてきたものを配っているという。
「神戸酒鬼薔薇事件にこだわる訳/A少年は犯人か 後藤昌次郎著」
著者は弁護士、多くの冤罪事件を手掛けてきた人らしい。

私は、冤罪事件については、色々な本で読んでいるし、また自分の体験からも、検察、警察を、公正、正義だけで動いているものとは見てはいないけれども、神戸酒鬼薔薇事件の犯人はさまざまな理由から冤罪とは思えない。

その本を、拾い読みをしたという、彼から話を聞くと、著者が冤罪理由として、あげているのは、主に、A少年の自白の整合性の無さだという。

「たとえばね、犯行に使われた「金ノコギリ」を、A少年は「糸ノコギリ」と言っていたんだ。それで最初は調書に糸ノコギリと記していたのに、金ノコギリ発見後は、それを金ノコギリと直してある。」

「えーと、だって、彼の自白で、糸でも、金でもいいけど、犯行に使われた「ノコギリ」が出てきたんでしょう。そんな日常使用しない物の名前の、言い違いや、思い込みは、結構、誰でもあるよー。」

「いや、男子は、小学校の工作の時間に、糸ノコギリや金ノコギリを使うはずだから、間違えるのは、やはり、少しおかしい。」

「えー。おかしくないよー。人間の物に対する認識なんて、かなりいい加減だよー。そうそう、最近ね「エスカレーター」と「エレベーター」をはっきり区別して覚えていない人のブログを読んだの。その人は「箱が上下する乗り物ってエレベーター?」って感じで書いてて…。でね、その人、お医者さんなんだよ。そういう、高学歴で優秀な人でもそんな事があるんだから…。私だってね…(まだ続く反論)」
と、言いながら、私。
まさか、このブログの開設者は、自分の日記がこんな議論?の反論のネタにされてるなんて思いもしないだろうなー。
これが裁判だったら、検察側証人で、「エレベーターとエスカレーターをごっちゃにして覚えている医師の証人」なんて呼び出されちゃったりして…(ある訳ないでしょ(^_^;;>自分)。
と、くだらない想像をして笑えてきた。

世の中にはいろんな人がいるよね。うん。
そんな、一見しては見えないものを、見せてくれるブログが、私は好きかも。

え、糸ノコ議論の行方?
私が勝ったのかなぁ。。。。
私の低レベルな反論に、呆れはてて、相手が黙っただけって気もするけど(^_^;;。


追記。
coco.さん。さんネタにしてごめんなさい。

もひとつ、追記。
私も友人もこの本をちゃんと読んではいません。
たぶん(いや、絶対に(^_^;;)、この会話のレベルなんかより、しっかりとした信頼性のある本だと思います。

しつこく追記。
ちゃま姫、本は食べ物じゃないってばっ。

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