2016/06/13
愛することができる人は幸せだ
今日、6月13日は「ぽんちゃ記念日」ぽんちゃが私のところに来てくれた日です。
ちゃま姫が天界入りしてから、九ヶ月め。
三年前の、この日、白うさぎを求めて、あっちをフラフラこっちをフラフラしていた私と、ぽんちゃの運命の出会いがありました。
(て、某ジョイフルにぽんちゃが売りに出されていただけなんですけどさ)
ここどこ?
あ、何か見てる
この人ヤダなぁ。。。
と、実は家についてから、ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと、びくびくして、ビビリぱなしだったぽんちゃ。
別名を「ビビリン」と付けました。
どうも、この「ビビリ」はぽんちゃの生来の性格のようで、未だに何か普段と違う音がしたりすると、その場から、脱兎のごとく(あ、ごとくは余計か(笑))走り出して逃げます。
家に来た時から「私はこの家の女王様」と言うでっかい顔をしていた、ちゃま姫とは大違い。
ほっんと、うさぎも色々です。
ビビリながらも大きくなり、ぽんちゃも立派な大人うさぎになりました。
このぽんちゃ記念日。
ぽんちゃと、ぽんちゃとのご縁を結んでくれたすべてへの、感謝をこめ、私の大好きなヘルマン・ヘッセの文を捧げます。
【愛することができる人は幸せだ】
年をとるにつれて、また私の人生の中で見いだしたささやかな満足感がしだいに気の抜けた味気ないものになってくるにつれて、私がどこによろこびと生きる源を求めなくてはならないのかが、ますますはっきりしてきた。愛されることは何ものでもなく、愛することがすべてであるということを私は体験した。そして私たちの存在を価値あるものにし、よろこびに満ちたものにするものは、私たちの感情、感覚意外の何ものでもないことが、だんだんはっきりとわかってきたように思った。
私がこの地上のとこかで「幸福」と名づけるものをみたときには、いつもそれはさまざまな感情からつくり上げられていた。お金は何ものでもなかった。権力は何の価値もなかった。この二つのものをもっていても、心がみじめな人がたくさん見られた。
……中略……
一見したところさまざまな感情があったけれど、根底においてそれはひとつのものであった。すべての感情を意思とよんでもよいし、それともどんな名でよんでもよかろう。私はそれを愛と名づける。しあわせとは愛であり、それ以外の何ものでもない。愛することのできる者は、幸せである。私たちの魂に、魂自身の存在を感じ取らせ、魂自身が生きていることを感じ取らせる、私たちの魂の動きは、どれもすべて愛である。それゆえ、しあわせである者は、たくさん愛することができる者である。愛することと恋焦がれることは、しかし完全に同じものではない。愛はただ愛することだけを望む。
……中略……
これは教え、世界で唯一の教えであった。これをイエスがいった。これを仏陀がいった。これをヘーゲルが言った。それぞれがその神学の中で言った。彼らの誰にとっても、この世界で唯一大切なものは、彼個人の心の奥底のもの「彼の魂」彼の愛する能力なのである。それがきちんとしていたら、人間は粗末な黍を食べて生きようが、ぜいたくなお菓子を食べて生きようが、ぼろを着ようと宝石で身を飾ろうと、世界と魂とは完全に調和しているのであり、世界はよいものであり、申し分のないものなのである。
ヘルマン・ヘッセ
「愛することができる人は幸せだ(草思社)より」
ぽんちゃ。
私のところに来てくれてありがとう。
愛させてくれてありがとう。